



日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
銘子は待っていた。
約束の午後1時を過ぎている…
仕事のやりくりをして待っているのにどうなってるんだ?
話は少し前にさかのぼる。
ある日、銘子が加入している保険会社の担当者から電話があった。
なんでも、『利率が下がるので、一度伺って説明したい』とのこと。
どれの利率ですか?と問うと『個人年金』のです、とお姉さんはおっしゃる。
2つ契約中なのでどれなのかな?と思いながら
『仕事が忙しいので、わざわざ来てもらわなくても、書面で説明してくれたらいいから』
と返答すると、電話口でお姉さんは『直接伺ってサインをもらわないといけないことに
なっている』としつこく云うので日時を決めたのだった。
『そんな説明にわざわざ…』つぶやきながら、銘子は目の前の
卓上カレンダーに印を入れた。
そしてお姉さんとのランデブーの当日。
ま、忙しいから来ないなら来ないでいいっか、と銘子が思い出した
1時半にチャイムが鳴った。
『1時っておっしゃってませんでしたか?』
『え?1時半と私はメモしています』と、お姉さんがのたまう。
かばんをゴソゴソしてその手帳を見せようとするので
銘子はそれを制してスリッパを出した。
自分の勘違いかもしれないし、水掛け論なのでここはスルーということで。
華奢なお姉さんの後ろからはみ出るように一緒にいらっしゃったのは、
海千山千、って感じのマダム。
『本日同行致しました、安心して託してください、の安託(あんたく)と
申します!』名刺を差し出された。保険会社にぴったりの珍しい名前だ…。
そして奇遇にも銘子の職場に同名の『安託さん』がいる…。
『うちにも同じ名前の安託さん、いるんですよ〜』と何となく
云いそびれて席に着く。隣の部屋で作業している安託さんが
聞こえたのか、少し反応しているのを感じる。
何となく、似たタイプだな…保険会社の安託さんの向こう側にうちの
安託さんが重なって見えた。
急に改まった口調で、保険会社の安託さんが云った。
『ワタクシどもがお伺いしたのには、3つの理由がございます!』
ひとつは、契約の数 × 一口で何かのキャンペーンに応募出来ること、
もうひとつも同じような加入手続きだった。
担当のお姉さんは大きな安託さんの少し後ろに控えて
(横に並んでいるのにそう見える)ニコニコ笑って頷いている。
『そして…』
安託さんの声が固くなる。
『こちらの商品なんですが…』
そのとき、『安託さん!これなんですが!』と銘子の会社スタッフが
大きな声でこちらに向かってきた。
びっくりする保険会社の安託さん。その横をスタッフは素通りする。
隣の部屋で『何ぃ〜?』とのんびり問い返す、うちの安託さん。
『うちにも同じ名前の人、いるんですよ』苦笑いしながら
銘子が云うと、白々しい空気が流れた。
気を取り直すように書類を出して、安託さんは説明を続けた。
『実は、こちらの商品の利率が10月1日をもちまして
下がることになり、もしご検討頂けるなら今のうちにご契約頂きますと、
かなり利回りのいい将来への貯金、と考えられるかと…』
一旦、間を置いて彼女は続ける。
『こちらをご覧下さい。この一時金をお納め頂きますと、
60歳から10年間、毎年これだけの金額をお受け取りになれます…』
雰囲気は完全なおばちゃんキャラなのに妙にネイルが可愛いなぁ…、
化粧ポーチがピンクのキティーちゃんの、とか持ってたりして!
書類をなぞるピンクの小花の爪をぼんやり眺めながら銘子は説明を聞いていた。
な〜んだ、新しい商品の勧誘で、契約済の利率が下がるんじゃないんだ。
これが今回の来訪のメインなのね。
電話口のお姉さんの説明では誤解してしまったけどな、と思いながら
銘子は頭の中で計算した。
ちょうど定期預金が満期になっていたのもあって、考えてもよさそうな
話だった。ちょっと大口だが、老後にはいいだろうと。
『お薦めした商品はとりあえずこの金額で設定しましたが
もっと色々な設定が出来ます』
『じゃあ見せてください』
安託さんが後ろのお姉さんに促すと、お姉さんは申し訳なさそうに云った。
『すみません…作ってきてません…』
『ふっ』
銘子の鼻から息が漏れる。
通り一遍の説明だけして帰るつもりで、客がその気になるなんて
思ってなかったのがありありだった。
今から会社に戻り次第、それらの設定のご連絡致します!とお姉さんは強く云う。
『だいたい、どの位の時間にお返事くださいます?』と確認すると、
お姉さんは『すぐに』と更に強く云う。
だから、そのすぐに、ってのはどのくらいなのか具体的に知りたいんだけど!
そう思ったが、銘子は了承した。
これと別件に、少しだけ変更があるものの手続きをして欲しいとお願いした。
保険会社の提案をもらってから少し考えて、こちらから連絡をすると云うと、
利率は10月1日に変わるので、契約するなら早めに返事が欲しいと。
じゃあ、次の週明けの月曜に返事すると約束すると、
そのときに別手続きの書類も持ってきてくれることになった。
『では、書類の作成のこともありますので、当日の午前中に
電話で契約の有無のご確認させていただいてよろしいでしょうか?
そのほうが、スムースに進みますので』
安託さんが念を押す。お姉さん、にこやかに頷く。
帰り際に、お姉さんが『では次回お伺いするのは今日と同じ時間で
よろしいでしょうか?』と云う。
『いいですよ』
お姉さん、メモしながら『では…1時半に?』
何となく、すこ〜し気分が悪い。
『ええ。1時じゃなく、1時半ってことで』
そして一週間後の午前11時半。
お姉さんからの電話はない。
『午前中』は極端に云えば11時59分59秒までだろう。
小さな事だが、向こうから電話すると云ったのだ。
銘子の中でお姉さんへの『そんなになかった信頼』が、跡形もなく消えた。
あの日、後で連絡をくれた色々な提案の中でも
お姉さんが最初に『入る訳ないだろう』と高をくくった額を用意していたというのに。
午後1時20分過ぎ、お姉さんから『今から伺います』の電話。
1時半きっかりに彼女はやって来た。
銘子はスリッパを用意せず、玄関のカウンター越しに応対した。
怪訝な表情で彼女は『あのぅ…ご契約の件はいかがなさいますでしょうか?』
『今日、午前中にお電話頂ける事になってましたよね?それで契約書類作って
いらっしゃると、そちらが仰ったのではなかったですか?』
息をのむお姉さん。
『あの…電話はこちらへ伺う前にすることだと…メモしておりました…』
消え入る声で云う。
で、気を取り直してまた問うてきた。
『で、ご契約は…?』
『あのね。保険って、自分がどうしようもなく弱ったとき(病気)とか
困ったとき(事故)に給付なんかの相談に乗ってもらう訳でしょう?
今回の電話なんかちょっとしたことだけど、お約束の時間にないし、
こういう小さなことで信頼できなくなるんですよ。信頼出来ない方と
契約、できないですね』
顔色を変えるお姉さん。でももう遅い。
『ではお願いしていた別の手続きしましょう』銘子が云うと、
お姉さん、鞄をかき回した挙げ句に
『あの…誠に申し訳ないのですが…その書類、忘れてきました…』
泣きっ面に蜂。ドジすぎて笑いそうになる。
でもお姉さん。ちょっと抜けすぎ。
やっぱり契約しないで正解かもしれない。
『じゃあ、その書類、郵送してください。記入して送り返しますから』
『いいえ!すぐに取って返してお持ちします!』
『いいですよ。ほんとに。送ってください』
『いいえ!伺います!!』
慌てて帰っていったお姉さん。
私だったらどうするかな。
郵送するだろうか。
上司と一緒でも1人ででもいいから、契約書類作って
すぐにやって来てもう一度勧誘する根性あるだろうか、どうだろうな…と
思っていたら、お姉さんやって来た。
『先ほどは大変失礼致しました…これ、よかったらお使い下さい…』
その保険会社のキャラクター入り・ピンクのクリアファイル6枚だった。
これだったら何も持ってこない方がいいのにな、いや、実はこの
ファイルはすごく値打ちがあるんだろうか?銘子には分からない。
『では…手続きさせていただきます…』
カウンターの上で、書類の指示される箇所に記入していく。
『で、お客様、本日、保険証書はこちらにお持ちになってらっしゃいますか?』
そんなの事前に云われてないのに持ってきていない銘子は『いいえ』と答える。
『では、こちらにチェック入れてください』
そこは『証書を紛失した』欄だった。
紛失してないし。
お姉さん、連絡くれたら持ってきてたよ。
こういう手続きに証書が必要なのは当たり前なのだろうけど、
そんなのに慣れてないものに対しては事前連絡するもんでしょう?
失くしてもないのにこちらの不備です、とチェック入れろってのか?
お姉さんに問う気も失せて銘子はチェック入れた。
もう、どんな有利な商品も入る気がしなくなっていた。
『あの…私、どうも口で云っていることと違うことをメモしてしまうようで
本当に申し訳ありませんでした…』
そう云ってお姉さんは帰って行った。
その日の夕方、帰宅した銘子の携帯が鳴った。
『あの…失礼を承知でもう一度お願いのお電話させていただきました…』
銘子が黙っていると、
『あの…今日が契約の締め切りでして…』
今日が?締め切り?そんなこと聞いてなかったし。知らないし。
あくまでもお姉さんのノルマの都合でしかない話だった。
銘子は昼間と同じ『信頼をなくしたということ』を繰り返して話し、
そして同じ失敗を次の人にしないように気をつけてください、と
電話を切った。
銘子の自宅の住所を彼女は知っているし、そう遠くもない。
電話ではなく出向いてきたら、また話は変わったかもしれない。
上司に云われてしぶしぶ電話だけでも、という感じしか受けないのに
誰が考え直すというのだろう。
銘子は後日、違う保険会社の契約を済ませたのだった。
銘子の老後。
そんなに長生きするつもりない、と思いながら何やってんだろう。
クリアファイルは会社の女子スタッフに配った。
うちの安託さんは『ピンクだ!』ととても喜んでくれた。
ラジオから、大型の台風が近づいてくるので注意をするようにと
天気予報が繰り返し流れていた。
〜このお話は、ハックション、である〜
愛の立ちくらみ劇場 ’09 山陰旅行編 その3
「ケーキセットでも食べるわ(それを昼食代わりにするつもり)」
渉がそう云うので
銘子がテーブルにあったメニューを見ると、そこには手書きで
『コーヒー¥262』とある。
すごい値段。
ショーケースの中のケーキも手作りというよりは、
(ケーキではなく)パン工場から仕入れて来たような感じがする。
「私は外の屋台でたこ焼きでも買うから、コーヒーだけでいいわ」
銘子がそう云うと、渉はケーキセット二つ(ホットコーヒーと
アイスコーヒーで)と別に銘子の分のコーヒーを頼んだ。
かなり長い時間が経った。
二組目の新婚さんの話も終わり、ゲームが始まったがコーヒーの
香りがしない。
「チンっ!」
電子レンジで何かが温まったようだ。
おばあさんはやっと注文の品を持って来てくれた。
『チン・コーヒー』にはなぜか湿気ったハッピーターンが一つずつ
添えられていた。
三人は無言でコーヒーを飲んだ。
律子はチーズケーキを一口食べてフォークを置いた。
渉は無言で自分の分のケーキを食べた。
こうして三人分の清算は、昨日の足立美術館でのコーヒー一杯分で
おつりがくる値段で済んだのだった…。
車に乗る前に銘子が屋台を覗いたが、焼いているお兄さんの手元の
たこ焼きの厚みが1cmもあったので買うのを止めた。
折角食べるんなら美味しいもの食べたいもんね。
「さ、どこ行こうか」
「このまま進むと萩を通るけど」
「ほな、萩に行こっか」
気を取り直して萩へ出発!
海岸線に沿って車は走る。
時折、海岸線にギリギリのところがあって、台風で波の高い時には
きっと道路が波で洗われるだろうと想像された。
しかし、それだけに海を眺めながらのドライブは最高だった。
三時のお茶の時間までに萩に到着した。
萩博物館の駐車場に車を停めて、いざ、散策!
至る所で『萩焼』の陶器が売られている。
観光客も多い。
日差しがキツい。
暑い。
白壁の路地を歩いていたが、なんせ暑い。
「休憩しよか」
渉が提案したので、営業中とあった喫茶店のドアを開けた。
その瞬間、中からおじさんの声が。
「入らないでもらえます?」
中には先客らしい四人連れが一組だけ。何でやねん。
先客も驚いてこちらを見ていた。
気を悪くして、黙ってドアを閉めた。
じゃあ、営業中の札、出すなよ。
ずんずん歩く渉の手にはもう車のキーが握られていた。
「もう、萩はいいの?」
「うん。もういい。もう絶対に来ない」
さよなら、萩。
車に戻り、ナビで宿の電話番号を入力する。
今夜の宿は、湯本温泉『大谷山荘』だ。
土曜の朝、朝日放送で放映中の旅番組で紹介されていた宿が
ここだった。放送されたのはここの別邸だが、そこの値段はぶっ飛び
だったので今回は本館を予約したのだ。
本館もとっても素敵だった。
今回の旅行は全て銘子が予約等を請け負ったが、渉のリクエストは
少し高くても『いい旅館』にしてくれ、とのことで、さらに
旅行期間が『シルバーウィーク』だったこともあって選ぶのに
骨が折れた。
しかし部屋に案内されるまでウェルカムドリンクを飲んでいた
ラウンジで満足そうに見回していた渉を見て、銘子は内心ホッとした。
部屋も風呂も食事も大満足であった。
しかし、なんせドライブ旅行となると運動不足でお腹が空かない。
そこへ豪華な食事なので胃が悲鳴を上げた。
貧乏性なので出された食事は出来るだけ食べようとしてしまう。
先付け、前菜、土瓶蒸し、お造り五種盛り、陶板焼き、唐揚げ、
小鍋、蒸し物、てっさ(お造り)、つみれ汁、炊きたてご飯、
漬け物、デザート。。。
荷物を持って移動しなくていい分、こういうこともあるのだなあ。
翌日の朝食はバイキングだった。
久しぶりにパンを食べる。
機械式だが一回ずつ豆を挽いて抽出するコーヒーが美味しい。
近くの牧場からの牛乳があったので、それでカフェオレにする。
一瞬和食にしようかと迷うくらいの料理の種類だった。
しかし銘子は胃と相談して、軽くサラダとパンにした。
昨夜、動けない程に食べた後、生ビール1杯ですっかり酔った
渉が早々に寝てしまい(この日は別に部屋を取った)、
前日ほとんど寝てなかったこともあって、静かな部屋で
つい寝てしまったのだ。それも午後9時に。
連休の渋滞のことを考えて、早めに帰路につくことにして
(なんせ、山口県から帰るんだし)
ちょこっとだけ近くを観光することにした。
ここ長門には青海島(おおみじま)というところがあって
(橋で結ばれているが)この島が『海上アルプス』と云われる程
様々な形の岩が点在する景勝地なのだ。
ここを観光船で一周してみることにした。
午前8時40分の始発、乗船する。
すんごいレトロな船。
窓は木枠だ。
それも引き戸。
もしもの時、本当に使える救命胴衣は人数分あるのだろうか。
一抹の不安を胸に、通路を挟んで進行方向『左側』に三人が座った。
ゆったり船出するが、波が少しあるのか岩のトンネルはそのせいで
くぐれないと連続パス。テープに録音された案内が船内に流れる。
「皆様、右側に見えますのが…」
「次に右に見えて参りますのが…」
「右、前方に見えて参ります…」
ポイントは全て右側に固まっている。
よく考えれば、船は島を時計回りに進むのだ。
つまり、島をぐるりと右回り。
通路を挟んで右に座る人の頭越しの窓に見える岩を見るしかない。
銘子は写真を撮るのは諦めてぼんやり海を眺めることにした。
渉は諦めきれずに、右座席の乗客の頭越しにデジカメを差し出して
撮っていたが…。
帰りはゆっくり中国自動車道を走って何度もサービスエリアで休憩しながら
家へ向かった。旅行中、全く渋滞に遭わなかったのだが、最後の最後に
『赤松』出口前からぴったり停まってしまった。
それが午後4時半過ぎのこと。よくぞ手前のサービスエリアで
トイレ休憩しておいたこと!
そこから『宝塚』出口まで2時間近くかかった。
さすがにシルバーウィーク。隣を走る車のナンバーがすごい。
『湘南』『釧路』…今からどこまで帰るんだろ〜。
多分、『吹田』辺りでもう一回すんごい渋滞があるみたいだし…。
うちは『宝塚』で降りるからいいんだけど、お疲れ様〜!
午後7時。マンション前で降ろしてもらって旅行は終わった。
たまには親子水入らずもいいもんだ。
多少の不満はあったが、でもそれも全て旅のネタとして
思い出に残る。70代コンビの両親といつまでこうしてられるか
分からないけど、また行けるといいな、銘子はそう思った。
おわり
〜〜このお話はフィクションというよりもハックションである〜〜
愛の立ちくらみ劇場 ’09 山陰旅行編 その2
それはチェックインして部屋に入った際の仲居さんとの話に戻る。
「砂時計ミュージアム、ってここからどのくらいかかります?」
渉が何気なくお姉さんに尋ねると、「はぁ、2時間ですね」と
こともなげに答えた。
「2時間???」
この旅行に行く前に、渉は孫の風香に頼まれたのだ。
「おじ〜ちゃん、旅行で島根に行くって?
だったら砂時計買って来てっ!」
島根を舞台にした漫画『砂時計』が人気となり、その後テレビドラマに、
そして映画化され、すっかり観光名所になっているのだ。
そして映画の中で重要な小道具として登場したのが、
砂時計ミュージアムの『一分間砂時計』。
ここでしか手に入らない。これを風香はおじいちゃんの渉にねだったのだ。
銘子は知らなかったが風香はこの漫画を全編持っているらしい。
はまってたのね〜。
「その『一分間砂時計』は人気なんだって。
手作りで生産が限られていて、売り切れることもあるらしいよ。
ガイドブックにそう書いてあるわ」
旅行前に銘子は、ここのミュージアムへのアクセスを調べるように云われて、
そう渉に教えたっけ。
どうもそこへは国道で一本道だそうで、混めば動かないし、
他の逃げ道はないそうだ。
「ミュージアムの開館時間はいつや?」渉が銘子に聞く。
「えっと…9時やって!」
「明日の食事時間は何時からいけますか?」
今度は仲居さんに渉は尋ねる。
「はい。7時からとなっております」
「じゃあ、7時にお願いします」
「かしこまりました」
仲居さんがふすまを閉めて部屋を出て行った。
「お父さん、明日、何時にここ出るの?」
「…7時半出発やな」
「え?」
「2時間かかるんやろ。砂時計が売り切れたらあかん」
可愛い孫の為、おじいちゃんは頼まれた砂時計を
何としても獲得しなければならなかったのだ!
7時に食事で7時半出発だったら、朝風呂にも入りたいし、
支度を入れたら…ということで5時起きとなったという訳。
話は元に戻り、無事に9時過ぎにミュージアムへ到着した。
車を置くなり渉は大股で歩き出した。
「おと〜さん、そんなに急がなくても!」
聞きゃ〜しない。ずんずん父親の背中が小さくなる。
「可愛いねんなぁ、風香と真央が」
律子が感心してつぶやいた。
やっと渉に追いついたのは入場券売り場だった。
すでに3枚購入して焦れている。
追いつくと同時に、渉は入り口のお姉さんに入場券3枚をかざして、
銘子らを指差した。
「あの2人とで3人です!」渉は館内へ入って行った。
一刻も早く砂時計を買いたいらしい。
急ぎ足で館内を探す。
ミュージアムショップは見つからない。
館内案内図にもない。
焦れた渉は入り口のお姉さんに尋ねた。
「ああ、ショップは外の『ふれあい交流館』にありますぅ〜」
「一旦外に出て再入場できますかっ?」
渉が入場券をかざして尋ねた。
「はい」
その声を背中に、もう渉はミュージアムを出ていた。
ショップには目当ての砂時計が展示してない。
レジのお姉さんに尋ねると
「はい、それはこちらで承ります」
それはレジの奥に積み上げられていた。
「で、一分計と三分計とがありますが、どちらにされますか?」
「えっ?」
絶句する渉。
横から銘子が「一分計って云ってたからそれでいいんじゃない?」
やっと風香と真央の分のふたつをご購入。
めでたし、めでたし、と思ってふと見ると渉が携帯で電話している。
風香に電話して、ほんとに一分計でいいのか確認しているようだ。
ほんとに…もう…じいちゃんたら。
もちろん、一分計でないと『意味ない』らしく、それでOK。
ミュージアムに戻って砂時計をじっくり鑑賞する。
世界最大級の、『一年計』というのがあるのだ。
大晦日にひっくり返すそうだが、どのタイミングで返すのだろう。
クルッと軽く返すような大きさでもないし(だって砂が1t入ってる)
…気になるところだ。
余談ではあるが、この『一年計』(砂暦)は
竹下元首相の『ふるさと創生事業』の一億円で作ったとか。
ここ琴ヶ浜の鳴き砂(ショップの見本品)を
キュッキュキュ〜っと鳴らして出発!
今夜の宿は山口県、湯本温泉なのだ。
日本列島の背中というか、山陰本線に沿って国道9号線をひたすら走る。
「ねえ、お昼はどうすんの?」
旅館での朝食は想像に違わず、ものすごい量だった。
渉は前の晩にフロントに連絡して、一人だけ『鯛めし』というのに
変更してもらっていた。
松江藩主松平公、考案の家伝料理で、あったかご飯に鯛のそぼろや
薬味、諸々をのっけて秘伝のだし汁をかけて食べるという『鯛めし』。
「旨いっ。折角ここまで来たんやからこういうの食べとかんとな」
銘子は律子と目を合わせて肩をすくめる。
普段、渉は家でほとんど、いや決して『魚料理』を食べない。
にぎり寿司は食べる。刺身も新鮮なものだと食べるが、干物や焼魚等は
絶対に箸を付けない。しかしこうして旅で訪れた宿では喜々として食す。
「お父さん、お茶漬けもあんまり好きじゃないのに…美味しいの?」
「うん!」
「お父さん、そしたら家でこんなん作ったら食べる?」
「食べへん」
「…なんでやねんっ!」
結局、丼に軽く3杯ご飯を食べていた渉には敵わないが、それでも
律子も銘子も昼近くになってもまだ満腹だった。
助手席でぼんやりガイドブックを見ながら銘子が云った。
「ちゃんとしたお店に入らずに、適当に何か買って、
んで海岸沿いに車停めて、ってのはどう?
これから先に行くと、自然派のパン屋さんてのがあるって」
「それにしよう!」
全員賛成。
しかしその店が見つからない。
ずっと国道を走っていたからサービスエリアでのトイレ休憩もなかったので
徐々に全員『野の花を摘みに、』に行きたくなってきていた。
「そこのコンビニで聞くわっ!」
ポプラの駐車場に停車。渉はトイレに直行。
銘子が店員のお姉さんにパン屋の名前を云って尋ねると
「ああ、新しくできた、あそこね!」
そう云いながらレジの方へ来るように手招きした。
そこにあったメモ用紙にお姉さんは地図を書いてくれた。
「ここ、ポプラ。んで方角は関係なしで書くけどいい?」
結局、近所でも有名なパン屋さんを3件教えてくれた。
とっても親切。
全員トイレを借りたので、缶コーヒーとお菓子を買って車に戻った。
「3つ教えてもらったよ。まずね…」
「もういい」
「え?」
「国道に戻る」
折角お姉さんが教えてくれたのに!渉の気が変わったようだ。
ま、よくあることだが。
ふと銘子がお姉さんが書いてくれたメモを見ると、それはコピーの裏だった。
『ポプラ**駅前店、前年売上/当年売上/前年対比/構成比』の一覧表。
いいのかな〜?ま、数字だけで項目名はなかったけどね。
そのまま走り続けて適当な『道の駅』に停まる。
渉がさっさと入って行ったのは『手作りの店**』と看板にあった店。
扉を開けて入ると、すぐにショーケースにケーキとなぜか和菓子が
並べて陳列してある。ショーケースの脇に一つだけテーブルと椅子があって
そこでイートインできるようだ。
折り紙で作った手毬が吊るされていて、おばあちゃんは店内のテレビで
『新婚さんいらっしゃい』を見ていたようだ。
嫌な予感。渉も「しまった…」という表情。
だったら…座っちゃったけど、出ればいいのに。
「お父さん、ここでどうするの?」
<つづく>
愛の立ちくらみ劇場 ’09 山陰旅行編 その1
シルバーウィークの初日、午前6時。
銘子のマンション前に父親の渉が運転する白のセダンが
横付けされた。さあ、今日から二泊三日のドライブ旅行である!
母の律子は後部座席にスタンバイしていた。
ナビのナビに加えてナビがカバー出来ない部分の地図検索は、
機械音痴で地図の読めない律子には無理なので
銘子が助手席で担当する。
まず目指すは安来にある足立美術館だ。まずナビに登録する。
シルバーウィークの初日ともなればものすごい渋滞を想像していたが
早朝ということもあって車の流れはスムーズである。
中国自動車道から米子自動車道に入る。山の緑がまぶしい。
高速道路を利用する利点の一つにサービスエリアがある。
『頻尿一家』と自称する銘子家族はとにかくトイレが近い。
さすがにサービスエリアは早朝にかかわらず混み合っていた。
駐車スペースには、車の中で泊まったのか、
毛布にくるまって眠っている家族連れも多く見られた。
こうしてこまめに休憩しながら、無事に開館時間を少し回った頃に
美術館に到着した。
入館料は¥2,200。もちろんリサーチ好きな銘子は
HPで『割引入場券』をプリントアウトしてきている。
これで一人¥200の割引となる。3人で¥600浮くなら
コーヒーの一杯でも飲めるではないか!
銘子ちゃん、エラい。
この美術館の庭園が何よりも楽しみだった渉が歓声を上げる。
天気のよいのもあって、緑が映えて美しく手入れされた庭園が
目の前に広がった。
まず休憩を兼ねて館内の喫茶室でコーヒーを飲むことにした。
『喫茶室翠』
重厚な室内。庭に面した大きな窓からは美しい庭園を臨むことが出来る。
コーヒーにはここの庭師さんが焼いた『竹炭のスプーン』がついてくる。
入場料を浮かせた金額では飲めない。
ま、ソファーにゆったり座って庭を眺めながら飲む料金も入ってのことと
云い聞かせていると、渉が竹炭のスプーンでぐりぐりコーヒーを混ぜている。
「あれ?お父さんもう一口飲んだの?」
「いや。今から」
竹炭のスプーンで混ぜることによってコーヒーがまろやかになる、
そのふれこみを確かめるなら、先にそのまま何もしないで飲んで
その後でかき混ぜてみて違いを楽しむもんでしょ〜!
ぐび。渉が一口コーヒーを飲む。
「全然分からん」
そりゃ〜そうさ。始めから混ぜてりゃぁ違いは分かるもんも分からん。
まったく…元々説明書を読まない性格だから仕方ないけど。
とぶつぶつ云いながら銘子はまず何も入れないコーヒーを口に含む。
少し酸味のある豆のようだ。
次に例のスプーンで混ぜてみて口に含む。
…まろやかになった…気がする。
銘子の舌も所詮その程度のもんである。
横山大観のコレクションが世界一とかで作品の展示が多かったが
銘子には大観の『落款』の変遷が興味深かった。
展示物を見ながら庭を見ながら館内を巡り、昼時となった。
夕食は旅館でだから、きっとヘビーなことになるだろうし、
それでなくても車での移動で運動しないから昼は軽くいこう!ということで
名物の『出雲そば』に満場一致した。
美術館の駐車場の一角にある蕎麦屋が有名だとかでそこへ勇んで行く。
スタミナそば、というのがここの名物らしいのでそれを注文する。
すぐに運ばれて来た、それは温かい汁蕎麦にエビの天婦羅ととろろと
生卵がのっかっていた。
「もしお出汁が薄かったらこれ入れて下さいね〜」
おばちゃんがどんっとテーブルに置いたプラスティックのポットは
しっかり汗をかいていた。
つまり、冷蔵庫に入れていたものを出したのだ。
熱いお出汁に冷たい汁を???
熱いものは熱く、冷たいものは冷たく頂く信条の銘子には許せないことだが
猫舌の人には嬉しいかもしれない。
「冷たい…それに…美味しくない…」
それでなくても食の細い律子がすぐに箸を置いた。
天婦羅は揚げたてではなく、いつ揚げたか分からない冷たいもの。
そんなに熱くない出汁に冷たい天婦羅ととろろに生卵。
蕎麦にはコシがあったが本来熱々をすすりたかった銘子はがっかりした。
割子蕎麦を頼めばよかった。
普段、麺食いの銘子一家であるのだが今回は残念。
三人ともがっかりして店を後にした。
さあ、気を取り直して次の目的地、『出雲大社』に向かうぞ!
この日の宿泊先は『玉造温泉』なので安来から松江市内に入り、
宍道湖の北側を走り出雲大社へお参りし、
宍道湖の南側を通ってホテルに向かう行程とした。
天気は少し曇りがちになったが、たまに雲の切れ間からのぞく光が
湖面に反射して美しい。車は快調に走る。
昼下がりの出雲大社到着。
ここでは『二礼四拍手一礼』で、さい銭を入れ、90度の礼を二回、
四回手を打って願いことをしてまた90度の礼をするとか。
現在、『平成の大遷宮』で屋根の葺き替え工事が進められている。
折角だから両親が大遷宮の寄付を(一口千円)した。
この社殿のすべてを『檜皮葺き』にするって気の遠くなる話だ。
60年に一度行われているそうだ。
仮拝殿でお参りし、でかいしめ縄(1.5t)を撮っていると渉が
さっさと帰ろうとする。
「お父さんっ!まだっ!神楽殿(かぐらでん)にも行くのっ!」
大声で呼び戻す。
270畳の神楽殿に合わせたしめ縄は長さ13m、胴回り9m、重さ4.5tの
立派なもの。このしめ縄の底面(直径2.5m)の断面に硬貨を差し込もうと
子供達が何度も失敗しながら投げていた。何かのご利益があるのかな。
一度でささると、もう一度出雲に来られる。
二度目でささると幸せな結婚が出来る。
…ってトレビの泉と違うって。
疲れのでないうちに宿に向かう。
『佳翠園 皆美』
気持ちのいい応対で好印象。
でも何であんなに細かい砂利をあんなにたっぷりエントランスに
敷き詰めるのだろう。車から玄関まで、ヒールが沈むは、
荷物のカートが沈んで転がらないは、これだけは不満に思った銘子だった。
こんなだったら固い通路をどこかに通しておくべきだよ〜。
早いチェックインだったので食事前にゆったり入浴し、
律子と銘子は別室でマッサージを受けてみた。
銘子を担当したおねえさんは銘子の肩こりに四苦八苦していたが、
少しでも凝りがマシになって銘子は大満足。
律子が試したのは生まれて初めてのフットマッサージ。
足裏だけのマッサージでどうして体中がぽかぽかするのか不思議そうだったが、
これも大満足。
係のお姉さんの誘導で食事会場に案内された。
用意された食卓に一枚の和紙があった。
『初秋の空 美しく晴れわたり 君の誕生 祝いぬるかな 女将』
予約時にちょこっと知らせておいたのをちゃんと覚えてくれてたのね。
今日は父、渉の70回目の誕生日だった。お祝いのグラスワインは
飲めない両親の分まで銘子が頂きました。うふ。
しか〜し。
自分の誕生日だから、とチェックイン後、部屋で宿の案内を読んだ渉が
宿が準備した料理の他に2〜3品追加注文していた!
それを思い出し、目の前に並んでいる料理だけで銘子は少し目眩がした。
「食べられるんかいな…」
しかし、旅館の料理ってなんでこんなに多いのだろう。
食前酒、先付け、前菜、温泉水を使った和牛・海鮮・野菜の蒸し料理、お造り、
更に四品からいずれか一品選ぶ料理、松平不味公献上品の『岩のり』を使った蓋物、
炊き込みご飯、留椀、香の物、デザート。
これにまだ島根和牛のステーキとアワビのステーキに車エビの焼き物を
頼むんだから目眩もするだろう。
銘子の家族は頻尿一家でもあるが、早食い一家でもある。
家族の中で酒を嗜む銘子を除いて、両親は殊の外食べるのが早い。
その早さに合わせて飲み食いすると、てきめんに悪酔いする。
なので銘子は意識してゆっくり食すことにした。
仲居さんがサービスしてくれるペースもあって、
割とゆっくり食事することができた。
かなりの食べ過ぎの状態で館内の土産物を物色し、部屋に戻る。
それでも食事開始から2時間もかかっていない。
「安来節、見に行こっか」
律子と銘子がマッサージを受けてる間に、部屋で館内と周辺案内の冊子を
熟読した渉が提案した。
近くの温泉施設で『安来節ショー』なるものが行われているそうだ。
浴衣に羽織でふらりと出かける。入場料は¥500。
折角だからと最前列に陣取る。入場者は銘子の家族を含んで7名。
舞台に設置された大画面テレビで、この地方の観光地や名産品を紹介する
ビデオが流れている。開始時刻の20時を回ってもまだ始まる気配はない。
まあ、7人相手にやる気も出ないわなぁ…とは思うものの、紹介ビデオの
『宍道湖では…』の台詞を聞くのが5回目となると、さすがに焦れて来た。
ふと見回すと席はほとんど埋まり、満席状態になっていた。すごっ。
80名は入っているかな。
やっと始まった。
民謡を歌う人、三味線の人、鼓を打つ人、ダンサー…いえ、舞う人2名。
鬼瓦のようなおばちゃんとゴリラのようなおばちゃんのコンビの
「あ〜あ、しんど」「はいはい、いきまっせ」ってな怠そうな雰囲気に
一瞬引いてしまったが、何と踊りが上手い。
最後の安来節ショーをもって公演は終了した。
踊るおっちゃんは(さっきまで鼓を打っていた)安来節の『師範』だそうで
さすが!おっちゃんの親指がほんとの『どじょう』に見えた!
お土産に日本手ぬぐいもらっちった。
(安来節のイラスト入り)
下駄をからんころん鳴らしながら宿に戻る。
もう一度風呂に入りたいところだが、
さっさと寝る準備をしている両親に合わせて
横になっていたら銘子も寝てしまった。
未明に、ものすごい地鳴りのような渉のイビキで起こされるまで。
夜明けまで渉の大音響のイビキと、隣でかすかに伴奏する律子のイビキとで
完全に眠れなかった銘子だったが、5時過ぎの朝風呂でしゃっきり目が覚めた。
何で5時起きだったって?
<その2へ続く>